バンドでメジャーデビュー、サラリーマン、ホテルで自作ラーメンの提供……異色すぎる経歴の男が放つ白河風中華そば 麺創庵 砂田(東京・巣鴨)(前編)

2020年09月09日 12時00分更新

 私がラーメンを食べる上で「味」よりも大切にしているのが「物語」。「物語」は何にも勝る最高の調味料。お店がこれまで紡いできた「物語」と、私が勝手にお店と紡いでいる偏愛に溢れた「物語」を紹介します。

 今年の4月30日。ある1軒のラーメン店が東京・巣鴨にオープンしました。新店ながら店主は50歳を超えた男性。その修業先は、ラーメン好きには説明不要の、ラーメンコンサルタントとして名高い渡辺樹庵さん率いる「渡なべスタイル」。濃厚豚骨魚介の始祖的存在である樹庵さんの下で修業しつつも、そのお店で提供されるラーメンは、独学で作り上げたという白河風中華そば。新店の味とは思えない完成度の高さが、ラーメン好きの間でたちまち話題になりました。私も食べに伺ったのですが、評判以上の美味しさに衝撃を受けました。

 誤解を恐れず言ってしまえば、独学でありながら、白河ラーメンの有名店と何ら遜色のないクオリティ。私はこの味にすっかり魅了されました。それと同時に、この味を独学で作り上げた謎多きオールドルーキー店主が気になってしまい、すぐさま取材を申し込んだのです。

 すると、店主の異色すぎる経歴と、波乱万丈の人生、そしてラーメンへの並々ならぬ想いが明らかになりました──。

 今回、私が「物語」を紡ぐのは、彗星のごとく現れ、すでに名店の風格漂う新店「麺創庵 砂田」です。

2020年4月、巣鴨にオープンした「麺創庵 砂田」

 店主のお名前は砂田裕史さん。

店主の砂田裕史さん

 兵庫県西宮市の出身で現在56歳。中学生の時に兄の影響でギターを弾き始めて、音楽に目覚めます。高校時代も音楽に没頭し、卒業後、プロのミュージシャンを目指して、東京の専門学校に入学。バンド活動に励みます。

 そして、バックバンドなどを経て、1992年、「フェスタモード」というバンドでメジャーデビューを果たします。バンドは5年間でシングル10数枚、アルバム3枚とベストアルバム1枚をリリース。多くの楽曲がCMのタイアップやテレビ番組のテーマソングなどに使用されました。

砂田さんのバンドがリリースした作品

ナント砂田さんは、正真正銘のプロのミュージシャンだったのです!

 当然と言いますか、この頃の砂田さんはラーメンとはほぼ無縁の生活。たまに人に連れられて、当時環七にあった有名ラーメン店を食べに行くことはあったそうですが、ラーメンとの携わりはその程度でした。

 その後、バンド解散を経て、砂田さんは他のアーティストへの楽曲提供を始めます。有名どころで言うと、ナント堂本剛さんに楽曲を提供しています。砂田さんが作詞作曲した「風のない街」という曲は、KinKi Kids主演のドラマの挿入歌となったのです。本当に凄いお方なんです!

 ところが、楽曲提供の仕事ではなかなか安定した収入を得ることができず、1年程で見切りをつけて、プロの音楽家としての生活を終えることに。実は、砂田さんはバンド活動をしていた1993年に結婚し、96年に子宝にも恵まれていたのです。家族を守るための決断でした。

 当時インターネットが普及し始めた頃だったこともあり、ネット関係の仕事に数年従事した後、40歳になった砂田さんは、2004年にコールセンター事業を行う会社に入社します。

 その2年後、砂田さんは突然、肺炎を患ってしまいました。幸い、大事には至らなかったのですが、これを機に、砂田さんはタバコを止めることを決意。これが結果的に、砂田さんの人生を大きく変える転機となったのです。

 よく喫煙者の人が「タバコを止めるとメシが美味くなる」と言いますが、砂田さんの場合もまさにそれ。あらゆる料理を食べる中で、特に蕎麦の美味しさに目覚め、趣味で蕎麦打ちを始めます。休日に千葉県にあった蕎麦打ち道場に通うようになり、すっかりのめり込んでいきました。元々プロのミュージシャンだった砂田さんですから、一度こだわり出したらもう止まりません。特に蕎麦つゆ作りに開眼した砂田さんは、つゆ作りに没頭するうちに、とうとう道場の先生より上手になってしまったそうです(笑)。

 つゆにこだわり始めた砂田さんの興味は、ラーメンのスープに派生していきます。会社が池袋にあったこともあり、ランチや会社帰りに近所のラーメン店に通いました。2006、7年頃の池袋と言えば、当時からラーメン激戦区。魅力的なお店が多数ありました。そんな中、砂田さんは「瞠(みはる)」のスープに衝撃を受けます。宗田鰹が立った魚介の風味にすっかり魅了されてしまいました。

 こうなると、砂田さんの情熱はもう燃え盛るばかり。休日はひたすら、都内の有名ラーメン店の食べ歩きと、ラーメンの自作に打ち込みます。当時のお住まいが埼玉県浦和市。ちょうど目の前が浦和の卸売市場で、豚骨や魚の節なども手に入りやすい環境だったこともあり、ますます自作ラーメンが本格さを帯びてきました。

自作ラーメン。左上「新潟燕系 背脂煮干」。左下「新潟長岡 生姜醤油」。右上「山口 下松牛骨」。右下「ネギまみれ冷やし中華」

 あらゆるラーメンを試作する中で、当時大流行していた濃厚豚骨魚介つけ麺も作り始めます。元々蕎麦打ちで使うために購入した小野式製麺機が自宅にあったので、蕎麦粉を小麦粉に変えて、麺も打ち始めました。砂田さん自身も、この濃厚豚骨魚介には相当の手応えを感じていたそうです。

 ちょうどその頃、砂田さんの古くから付き合いのある先輩に、濃厚豚骨魚介つけ麺を振る舞う機会がありました。つけ麺の美味さに感動した先輩は、当時福島県の県南にあったスパリゾート&ホテルの社長をやっていたこともあり、「ホテルでこのつけ麺を提供してくれないか」と砂田さんにオファーをしてきました。これまで家の台所で作るのはせいぜい10食分がいいところだった砂田さんは、ホテルの本格的な厨房を使って、100食仕込む経験ができることに心躍らせ、快諾しました。

 こうして、砂田さんは本業はサラリーマンでありながら、休日を利用して定期的に、福島まで出向き、つけ麺を作りました。これが予想以上に好評を博し、ナント約8年に渡って砂田さんは通うこととなったのです。ちなみに、福島県の県南と言えば白河市があります。そう、この時期にホテルから白河市まで足を運んで、たくさんの白河ラーメンを食べ歩いたことが、現在の砂田さんのラーメンに大きく影響しているのです。

 ミュージシャンからサラリーマンへと転身を遂げ、家族を守るために働いてきた砂田さん。子供もすっかり大きくなり、2017年に、無事就職も決まりました。このタイミングで、砂田さんは「これからは好きなことがやりたい」と、奥様に相談しました。自分のラーメンがホテルで提供されるまでになった砂田さんは、いつしか自身のお店で勝負したいと思うようになっていたのです。

 砂田さんの申し出を奥様は快諾。奥様はいつも砂田さんを信じて、やりたいようにやらせてくれました。思えば、砂田さんが奥様にプロポーズしたのは、まだバンドのメジャーデビューが決まる前のこと。将来が不安定な男からの申し出にもかかわらず、「たとえプロになれなくても、そういう経験をしていることが大切だから」とOKしてくれたと言います。物事の本質をしっかり見て下さっている素晴らしい奥様です。

 2018年、砂田さんは会社を退職することを決意します。ただ、そのまますぐに開業するのではなく、どこかのお店でしばらく修業を積むことにしました。10年以上に渡る自作を経て、味作りに関してはそれなりに自信がありました。しかし、実店舗で働いたことがなかったので、その経験を積む必要があると判断したのです。

 では、どこのお店の門を叩くか。砂田さんは考え抜いた末に、2017年12月に、「渡なべスタイル」の渡辺樹庵さんにメールを送りました。元々砂田さんが最初に衝撃を受けた「瞠」は樹庵さんプロデュースのお店ですし、当時池袋にあった「ナベラボ」では、地方のラーメンを提供しており、それが学べるのも魅力でした。樹庵さんのセンスに惚れ込んだ砂田さんは、「渡なべスタイル」で働きたいと志願したのです。

渡辺樹庵さん。ラーメン界を代表するトップラーメンシェフの一人

 他の従業員はほとんど30代の中、50歳オーバーのルーキーは、本当にやっていけるのかと不安もありましたが、いざ働き始めると楽しくて仕方がありませんでした。最初に配属されたのは、神保町のお店「可以」。確かに体力的には大変でした。サラリーマン時代はパソコンより重い物を持つ機会がほとんどなかったのに、いきなり数十キロの寸胴を持つワケですから。「人生でこんなに汗かいたことない」ってくらい苦労しました。加えて、厨房の暑さ。特に白湯スープをガンガン炊く「可以」の暑さはとんでもないらしく、「『絶対に白湯はやらないぞ』と心に誓いました」と、砂田さんは笑います。

 「可以」で1年ちょっと働いた後、希望だった「ナベラボ」へ異動。ラーメンの味作りはもちろん、接客やお店の回し方など、ラーメン店をやる上で大切なことをたくさん学びました。そして、2年の修業を経て、砂田さんは独立を決意します。

 砂田さんが生まれたのは1964年。前回の東京五輪が開催された年でした。そして、今回の東京五輪が開催される2020年に、晴れて独立すると決めたのです。結果、残念ながら五輪は延期となってしまいましたが、砂田さんは粛々と独立の準備を進めます。

 2020年1月、お店も今の巣鴨の物件に決まりました。そして、自分が勝負するラーメンの味も決まりました。オープンは3月末を予定。ここで砂田さんは、ある人に自分のラーメンの試食をお願いすることにしました。それはもちろん、自分の師匠とも言える存在の、渡辺樹庵さんです。

 樹庵さんは基本お店に立たないので、砂田さんが何か直接教わることはこれまで一切ありませんでした。一緒に地方のラーメンを食べ歩きする際にお話しするくらい。「はたして樹庵さんは自分のラーメンをどう評価するのか?」。自作で10年以上、そして「渡なべスタイル」で2年、腕を磨いてきた砂田さん。自分のラーメンの味にはそれなりの自信とプライドがありました。

 ところが、試食の際に樹庵さんから言われた想定外の一言に、砂田さんは自信とプライドを打ち砕かれ、オープン直前に大きな決断を迫られることとなってしまうのです。ただ、その一言があったからこそ、今の「麺創庵 砂田」があると言っても過言ではない、それほどまでに砂田さんにとって大きな言葉でした──。

 というわけで、このあたりで前編は終了です。後編では、大きな決断を迫られた砂田さんが出した答えと、多くのラーメン好きが唸る「麺創庵 砂田」のラーメンの秘密に迫ります。何度も白河に通い、「とら食堂」や「火風鼎」など名店を食べて研究を重ねてきた砂田さんが、導き出した「白河ラーメン」とは? 後編をお楽しみに!

赤池洋文 Hirofumi Akaike (フジテレビ社員)

2001年フジテレビ入社。ドラマ「ラーメン大好き小泉さん」、ドキュメンタリー「NONFIX ドッキュ麺」「RAMEN-DO」などラーメンに特化した番組を多数企画。大学時代からの食べ歩き歴は20年を超え、現在も業務の合間を縫って都内中心に精力的に食べ歩く。ラーメン二郎をこよなく愛す。

百麺人(https://ramen.walkerplus.com/hyakumenjin/

本人Twitter @ekiaka

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